倶知安町、ひらふのスキーの歴史
ここは外国か、というほど海外からのスキー客でにぎわう、今や国際的スキーリゾートとなったひらふの歴史を垣間見てみましょう
遡ること100年余り。まだ、日本は明治という時代。雪は深々と降り積もるのは、今と変わりませんが、この豪雪地帯に暮らす人々の暮らしにはずいぶんと違いがありました。家屋の2階ほど降り積もる雪を、人々はまだ「楽しむ」ということを知らなかった時代。
倶知安、ひらふのスキー史に欠かせないレルヒ中佐という人物をご存知でしょうか。オーストリア出身のレルヒ中佐(本名:テオドール・エードラー・フォン・レルヒ)は日本で初めて本格的なスキー指導をおこなったいわば日本に「スキー」をスポーツとして持ち込んだ人として知られています。時は1912年(明治45年)4月15日。中佐はスキー指導のため旭川を訪問し、スキー訓練の総仕上げとして羊蹄山に登るために倶知安町に到着します。4月17日に、羊蹄山の滑走を行い、そのニュースは当時の小樽新聞にも取り上げられ、倶知安町に住む人々にとって、その「スキーを楽しむ」姿は大変新鮮に、斬新に映ったそうです。雪を使って楽しむことができるスキーという全く新しいスポーツを、印象付けたのはこのレルヒ中佐なのです。
写真を見ても分かるように、レルヒ中佐が最初に日本に伝えたのは、杖を一本だけ使うスキー術であったそうです。今でいうストックとは違い、竹の棒といったところですが、レルヒ自体は1本杖、2本杖両方の技術を会得していたそうです。1本杖の使い方はどんなだったのでしょう、ベネチアのゴンドラの漕ぎ手のようにリズムよく使っていたのでしょうか。
また、スキーの普及より約10年後に開催された第1回全日本スキー選手権大会では、2本杖を使うノルウェイ式が圧倒し、レルヒ中佐が伝えた1本杖のスキーは急速に衰退したと言われています。
ギアの進化、最新技術を備えたウェアを持っても羊蹄山のバックカントリーは楽ではありません。過酷な状況は今も昔も変わらないにもかかわらず、史上初の羊蹄山スキー登山を今よりもはるかに軽装備で敢行したレルヒ一行は、写真の表情とポーズから見ても分かるように、楽しいというよりも、大変過酷で重大な任務かのように見て取れます。
1961年12月、ニセコヒラフスキー場として開業した、現在のニセコマウンテンリゾートグラン・ヒラフです。当時と、現在のグラン・ヒラフの様子を見比べてみましょう。後ろに聳える羊蹄山は、今も昔もそこに在り、人々と時代の移り変わりを眺めているようにも見えます。
当時としては北海道内でも有数のロングリフトとして開業し(1070メートル)その年は倶知安町が開拓されてちょうど70周年の年でした。
1960年代のリフト(左)と現在のリフト(右)。急速なスキー普及により、臨時スキー列車準急「ニセコ号」の運行も始まり、第一次スキーブームが到来した頃でもあります。当時まだニセコ駅が、狩太駅と呼ばれていたころの運行ダイヤが残っていました。札幌、狩太間を週末のみ運行していたようで、およそ2時間20分、現在のJRでニセコ町から小樽を各駅経由し、札幌まで約3時間。それを思えば、週末のこの札幌狩太の準急列車は非常に便利だったと考えられます。
第二次スキーブームとして知られる1980年代後半。日本ではバブル景気が到来し、映画、私をスキーに連れてって、などのヒットも相まって、スキー産業は大きく拡張します。このころ、寝台特急北斗星トマムスキーやニセコスキーが運行され、新千歳空港からのリゾート特急がJRから運行されました。
その後、スキーブームはバブル期の終焉と共に衰退したものの、昨今の海外客でにぎわうニセコエリアは国際的スキーリゾートとして、またバブル期のような賑わいを見せ、スキー場のリフトの更新や、新しいスタイルの宿泊施設、飲食店など、多様化し、今最も勢いよく好調にスキー客数を伸ばしているリゾート地代表の一つとなりました。
今ではスキー人口よりもスノーボード人口の割合も増え、様々なスノーアクティビティを楽しむために、世界中から人が訪れるようになりました。レルヒ中佐が日本にスキーを持ち込んで以来約100年、ニセコのリゾート地が開業して約55年。国内でのスキーブームが去った後に海外からのスキー客が訪れるようになってまだ十数年。ニセコリゾート地区は日々、目まぐるしく変化しています。ほんの数十年前はまだ数件の宿しかなかった、と今の60代が当時を振り返ってそういいます。新千歳空港からのアクセスもJRやスキーバスといった便利な交通オプションも増えましたが、増加する観光客に比べ、いまだ交通の利便性という点は大きな課題と言えそうです。それでもこの地からウィンタースポーツとしても主要種目のスキーやスノーボードの選手が生まれ、また強化トレーニングなどでもこの地が選ばれたりと、「豪雪」という土地柄を活かしたポジティブな暮らしと産業はまだ100年前の人々には見いだせないことでした。
高速ゴンドラ、スノーボード、ビーコン・・・明治時代、この地に立ったレルヒ中佐は、現在の光景を見て何を思うでしょうか。人々のくらし、アイデア、そして発展が変化を呼び、積み重なって今の姿になり、それが歴史となるなら、私たちもまた歴史を構成しているほんの小さな存在なのだと改めて感じさせられます。レルヒ中佐にとっての100年後が現在の姿ならば、私たちにとっての100年後は一体どんな風景・光景・人々がここに在るのでしょうか。
資料:
倶知安風土館
倶知安町のスキーの歴史だけでなく、この土地の人々の生活の変化や歴史、ここに住む動物や植物など、倶知安風土館には様々な資料を展示しており、この地を訪れる人たちだけでなく、この地に住まう人たちにとっても、貴重な知恵や発見があるはずです。実際に資料を手に取り、触れて感じることができるの大きな特徴です。
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